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徒然雑記帳T

 

 

    思いつくまま落書き風に綴った雑記帳です。御笑読ください。

 

徒然雑記帳T

〇競馬事始(2006/09/14)←クリック

〇血統事始V(2006/02/14 )←クリック  

 〇血統事始U(2006/01/20)←クリック 

〇血統事始(2006/01/15)←クリック 

〇2005/11/07 ディープインパクトの体重U←クリック ●2005/06/01 ディープインパクトの体重←クリック 2003/02/15 TVに出た馬たちT←クリック 2003/03/16 TVに出た馬たちU←クリック

天国に行ったハードクリスタル号←クリック 

 

〇徒然雑記帳U←クリック

〇2008/01/10 2007年競馬の総括  

〇2008/03/27 さらば! サウスポール号

 

〇徒然雑記帳V

徒然散歩路(1)←クリック

〇2008/11/27徒然散歩路1(鎌倉散歩)

〇2008/11/30徒然散歩路2(高尾山散歩)

〇2008/12/05徒然散歩路3(六義園)

〇2008/12/09徒然散歩路4(文京区)

徒然散歩路(2)←クリック

〇2008/12/23徒然散歩道5(神田川源泉池)

〇2008/12/28徒然散歩路6(私立大学めぐり)

〇2009/01/10徒然散歩路(東京タワー)

〇2009/01/30徒然散歩路(浅草寺せんそうじ)

徒然散歩路(3)花を訪ねて←クリック

○2009/04/04徒然散歩路9(桜の文京区界隈)

○2009/04/05徒然散歩路10(神田川その源泉池の桜)

○2009/06/05徒然散歩路11(鎌倉あじさい散策)

 

 

 

 

 

 

 

〇2006/09/11 Mon 20:20 競馬事始T
   

我が人生は競馬のために

1944年戦争も激しくなり大森区立大森第四小学校通っていた私は祖父を頼って三島に疎開しました。

場所は三島市と清水村との境の東海道に面した家でした。翌年戦争も終わり次の年から三島の競馬も盛んになり、早朝東海道で調教する馬の蹄の音で目が覚める毎日でした。

近所の農家には海老に成った馬や、他の競馬場から来て連れて帰らない馬が預けられて農耕馬として飼われていました。

秋の刈り取りの終った田んぼで、そんな馬に無口の手綱を付けて裸馬に乗り子供同士で競馬ごっこを遣りました。

戦後5年も立ちますと川崎から亡くなられた稲垣先生や山崎先生が馬を引いて競馬に来て、祖父の家の前の床屋さんや中華屋さんに下宿していました。

そんな環境ですから小学校も6年になると復員してきた叔父や近所の若者に連れられて競馬場に行き少ない小遣いを増やすべく馬券に励んでいました。

三島競馬場は一周1200m幅25mのコースで府中競馬場のように3コナー付近に大きな欅の木があり「勝った馬はあすこに隠してあったんだよ」と教わったものでした。

そんな生活は1955年の三島競馬廃止まで続きました。

大学に入り東京に出てきた私がまず行ったのは東京競馬場でした。その頃はもう一端の馬券師気取りで学費や生活費を持って出かけました。

東京競馬場では三島の競馬場のような情報が無く、当時はまだ馬体重の発表すら無くて、パドックで見極めるしか有りませんでした。これが非常に難しく、しばしば苦戦を強いられ、また騎手の腕も一部の騎手を除いてはレベルが低く、とんでもない乗り方をされ大敗を喫して虎の子を取られていました。全く馬券師もいい面の皮でした。

そんな状態ですから、いくらアルバイトやっても追いつきません。血尿が出るほどの苦しさでした。

やがて大学2年になり統計学と出会い目から鱗というか、これだと思い競馬のデーター処理に夢中になりました。やがてデーター処理にはクラスが細分化されて同じコース、同じ仲間で走る南関東競馬が最適であると気が付きました。

主戦場は川崎競馬でした。そこには昔かし三島の競馬場に来ていた先生方が居り皆大歓迎してくれました。

当時の川崎競馬場は山崎先生や中島先生が騎手として活躍しており、浦和競馬の帰りに競馬場の近くの焼き鳥屋で一杯飲みながら両騎手と反省会をやって一緒に帰ったものです。

公営競馬は365日開催している競馬で勉強はおろそかになりましたが、厩舎に寝泊りしての競馬は益々磨きをかけました。

その頃の地方競馬には公認の予想屋以外に非公認のコーチ屋と呼ばれる予想屋が居ました。その一人が今は入院中のためメッセージボード書き込んでくれていませんが「バケンオー」のハンドルネームを持つ山本俊二さんです。

彼は大手弱電メーカーの技術屋さんでしたが競馬が好きで会社を辞めて独自のデーター処理で優劣を付けてコーチをしていました。彼のデーター処理は馬場の状態を考慮して補正してから処理するもので可也優れたものでした。

山本(バケンオー)さんの周りには私やキンコーの冠で馬を走らせた仲原恭一さんや宮大工の加藤さん、今も健在なNAKANOさん、家電販売の小野さん、区会議員のかばん屋さん 、酒屋さんなど13人がグループを作っていつも一緒に競馬を遣っていましたた。

競馬が終ると勝った人が浅草の「みどり鮨」と「キャバレー花電車」を支払うルールでよく飲みに行きました。大金を取った人が居ますと浅草のふぐ屋に行く事も有りました。だいたい儲ける人は決まっていて私と仲原さん、NAKANOさんの3人が主でそれに小野さん加藤さんが続いていました。一番豪華だったのは山ちゃん(バケンオー)情報で材木屋の親爺さんが大儲けした時でした。親爺さんはなんと神楽坂の料亭で芸者を上げて騒ぎました。帰りにNAKANOさんが人力車で帰ったことを鮮烈に覚えています。

山本さんの後に似た方法で予想を立てる同じ愛称の「山ちゃん」が出て来ました。山ちゃんは山崎といい大手製薬会社の技術屋さんでしたが馬券に魅せられてコーチ屋になりました。しかし後年予想にいきずまり我々のあたり馬券を持ってドロンしてしまいました。それを見るに付けPCの無いころ計算尺を片手に予想する山本さんは見事なものでした。

やがて大学も卒業し会社に就職しました。所属は技術部でしたが競馬好きな営業課長と組み暇に飽かせて大井や川崎に車を飛ばして馬券を張っていました。

「血統事始V」にも書きましたが、1959年の夏その課長に誘われて大井競馬に行き初めてオンスロートに出会いました。レコードで突っ走った雄姿を見てすっかりその虜になり馬券は二の 次で馬自身に興味を持つようになりました。

オンスロートが中央に殴り込みに行きそれなりの成果を挙げるにしたがって、その意は益々強くなり如何したらこんな馬を持つように成れるかばかり考えておりました。

その頃になりますと13人居た仲間も半分ぐらいに減っていましたが、思いは同じで「いつの日か馬を持ちたい」とよく話し合っていたものです。

私の遣った事は、当たり馬券の1割を損得に関係なく積み立てる方法でした。競馬ですから金に困る事も再三ありましたが、この金だけは手を付けませんでした。

サラリーマンも10年目を迎えてこのまま馬券師サラリーマンを続けるのは無理だと悟り、多くの競馬好きサラリーマンと同じように会社を辞めて独立しました。

自由時間を手に入れた私はもちろん競馬主、会社従の生活で支払を取った馬券の儲けで払うなど滅茶苦茶で一緒に始めた同僚も辞めて行き、ついには馬を買うための積立金まで手を付け出しました。

このままでは「馬主に成るのは遠いい夢」と遅れ馳せながら気づき、競馬友達にも「今度会うときは馬主として会おうぜ」と啖呵を切って競馬場を後にしました。

その頃はテンポイント、トウショウボーイが活躍していましたが馬券とは縁を切り、将来馬を買う時の為と血統の研究にその矛先を変えました。

しかし競馬復帰は難しく、復帰までには15年を要しました。15年後中央、地方の馬主資格を取って競馬j場に戻った時は、山本(バケンオー)さんも元気に遣っており車を買って上客の送り迎までしていました。

むかしの仲間は4人に減っていましたが、仲原さん、NAKANOさん、加藤さん、酒屋の旦那の4人はすでに馬主になって居り、酒屋の旦那とNAKANOさんは重賞勝ち馬を持っていました。仲原さんと加藤さんはB1の常連馬で活躍していました。

その後、残念ながら4人共にバブル崩壊のあおりを食らって馬主から足を洗いました。そしてNAKANOさんを除いた3人は失意の内に亡くなられ、また三島時代からの山崎先生、稲垣先生、中島先生も亡くなられて、仲原さんやNAKANOさんとよく温泉やゴルフに行き私の中山馬主会の保障人に成ってくれたドウカンヤシマの新井さんも亡くなりました。昔の仲間はいまや入院中のバケンオーさんと引退したNAKANOさんだけになりました。

また血統研究の友人も青木さんは競馬通信社を閉め引退し、矢野先生はアメリカに行ってしまいました。馬主に成ってから知り合って昵懇に付き合ってきた佐々木先生、河津先生も亡くなり、いまや現役競馬人では肝胆相照らす仲間は居なくなりました。

しかし「我が人生は競馬にあります」私もずいぶ年を取りましたが健康な間は頑張って行きたいと思います。

*エピソード

競馬を始めてから.+.常に考えていた事は{そのレースの競馬場のお金を全部取る}ことでした。馬主になって初めての勝負はそんな目的で馬を走らせることでした。自分の馬を信じて目一杯の馬券を買う、そして競馬場のお金を全部取る。

私はそんな目的を持ってアラブのオープン馬1頭を新潟(地方)から買いました、ハツノファーストです。新潟は賞金が安く重賞勝ち馬以外はオープン馬でも持ち賞金は少なく金額も安く買えました。金額は150万円だったと思います。

早速川崎の杉村厩舎に所属しました。レースは売上の多い大井競馬場に決めジョッキーは今調教師の山崎騎手に頼みました。

格付けは確かC2だったと思います。当日は騎乗停止のために山崎騎手が乗れず佐々木竹見騎手に頼みました。

初めてデビューするハツノファーストは砂の深い新潟、三条競馬のため持ちタイムが悪く全然馬券が売れませんでした。主力に買おうとしていた3−7(当時は枠複のみ)でも¥5000円ほどの配当でした。ついにその時は来たりと思い配当が¥800円に下がるまで馬券を買いました。勿論押さえに2−3,3−5、3−8も買い総額で400万円ほど投資しました。

スタートは2コーナー隅の1400mでした。スタート後双眼鏡で先頭の馬から順に見て行きましたが何処にもハツノファーストの影も形もありません。ハツノファーストは初めての競馬場でビックリしてまだゲートに居たのです。やっとゲート出た時は先頭の馬は向こう正面差し掛かり後方の馬からも100mぐらい離されていました。

目の前は真っ暗になり頭をガツンと殴られた気がしました。

佐々木騎手は焦らず悠々と最後方を走っています。やがて4コーナーで後方の馬に取り付き一気に追い出して辛うじて2着にきました。それが長年の夢が叶った瞬間でした。

後で聞く所によりますと、ハツノファーストを大井の馬場見せに行った所、大井の赤間調教師が〔いいアラブだね、どの重賞狙ってきたんだい」と聞いてきたそうです。

2戦目は川崎で1番人気になり、2着の馬を100m以上離して勝ちましたが低配当で馬券の対象にはなりませんでした。

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〇2006/01/15 Sun 12.30 血統事始 T
 

日本でも、クラシックの有力候補・サクラメガワンダーは、
Hail to Reason重ねになっていますね。
これからは母父サンデーサイレンスが増加に伴い、このような
配合も増えてくるでしょうがいががなものなのでしょうか?
サクラのような相似配合であれば大丈夫なのでしょうか?


ゆきさんから上記のような書き込みが有りました。答えになるかどうか分かりませんが、私の血統えの思い入れを書いて見ました。

 

  血統事始  *青色の馬名はクリックすると血統表を観る事が出来ます

 

1976年4月25日中山競馬場の皐月賞に於いて、私の大好きなテンポイントを5馬身も千切ってトウショウボーイが優勝しました。その後トウショウボーイは有馬記念も宝塚記念もテンポイントを破って優勝しました。

このスピードで来いと言わんばかりのトウショウボーイに引かれて血統を調べ始めました。

トウショウボーイの配合の最大の特徴はHyperionの3X4のクロスを持っていることで、奇跡の血量といわれる18.75%のHyperionの血量を持っているこたでした。

この奇跡の血量に非常に引かれて、更に色々の馬について調べてみました。

当時はまだ5代血統表を作るのにかなりの時間が係り大変苦労しましたが、いろいろのことを勉強できました。

トウショウボーイの根幹を成すhyperionは、当時最高の名馬として名高かったSt.Simonの再現を夢見るブリーダーにより多くの配合がなされ、その中で成功した馬の1頭がHyperionでした。

Hyiperionの血統の最大の特徴はSt.Simonの3X4で構成されSt.Simonの血量を「奇跡の血量」と言われる18.75%持ったことです。

また、Hyperion以外ではダービー卿の馬PharosColorado、テシオのNearco等がSt.Simonの血量18.75%を持つように配合されています。

これらの馬を見ますと父のサイヤーラインからSt.Simonは外されており、矢野先生の指摘されていた父ー父のサイヤーラインと母ー父のサイヤーラインの重複はありません。Nearcoの父PharosはSt.Simonの4X3で母NogaraはSt.Simonの3X4ですが、父、母のサイヤーラインの重複はありません。またNogaraの父HavresacUは.St.Simonの2X3ですが父、母のサイヤーラインの重複はありません。このように配合の名人テシオやダービー卿がたくみに父、母のサイヤーラインの重複を避けているのを見ますと、矢野先生が指摘されるように父、母のサイヤーラインが重複する配合は配合の王道から外れる「非常識な配合」といえるかもしれません。

勿論Northern DancerもHyperionの父Gaincboroughの4X4ですが、父、母のサイヤーラインは重複していません。またHeloもBlue Larkspurの4X5ですが父、母のサイヤーラインは重なっていません。

相似配合については、完全な相似配合はダービー卿の馬で見ることが出来ます。Plassyです。この馬はBay Ronald4X4 Cyllene 4X4 ですが父と母のサイヤーラインは逆になっていてサイヤーラインの重複は避けています。

ちなみに父、母が同じサイヤーラインで成功した馬はアメリカに居ます。そのはNative Dancerの父Polynesianです。PolynesianはPolymelianの3X4ですが父、母のサイヤーラインが重複しています。

これについてはKen McleanもPolynesianについて「彼のブリリアントさと種馬としての成功の理由を見つけ出すために、かなりの時間を要してしまった」と書いています。

 

血統を研究するということは、データーに基づく確率を計算するようなもので、1頭成功しても可としないところがあります。また、どんなに良い配合でも全部走るわけではありません。そのことは全兄弟の我が子供たちを見ても良く分かります。

そのような訳でサクラメガワンダーを見ますと、この馬が走る前に購入の機会があったとしたら二つの点で購入しなかったと思います。

一番目の理由は父、母のサイヤーラインが重複している事。2番目の理由はSilver Hawkを父に持つ種馬はあまり成功していないからです。もしラジオたんぱ杯でサクラメガワンダーの2着のアドマイヤムーンとどちらを取るかと聞かれたら、迷わずアドマイヤムーンをとったと思います。

5代血統表を乗せましたので是非参考にして下さい。

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トウショウボーイ

 

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〇2006/01/20 Fri 16.50 血統事始U
 

いよいよ平安Sですね!優勝期待しています!
よろしければですが、購入に到る経緯や当馬に関する
エピソードを教えていただければ幸いです。

 

ゆきさん応援有難う御座います。平安ステークスはGVレースなのに強敵が揃い苦戦ですが藤岡君に全てを任せました。ハードクリスタルの購入事情私の思い入れを含めて書きました。

 

血統事始U  *青色の馬名はクリックすると血統表を観る事が出来ます

 

.ハードクリスタル号の話を始める前にまず1994年12月23日大井競馬場で東京大賞典(GT)を三歳で勝った我が愛馬ドルフィンボーイ号のことから話さなければなりません。

ドルフィンボーイ号は青森牧場にバーバーの肌馬の仔を探しに行った時に出会いました。

父の名を聞きますとあまり聞きなれないルイヴィルサミットでした。

生まれたばかりでしたので、一ヶ月後に再度見に来る事にして一旦帰ってきました。

家に帰りルイヴィルサミットを調べてみますと前回取り上げた「奇跡の血量」を持った馬でした。その血はSt.Simonの血量18.75%を持ったNearcoの仔Nasrullahが3X4で入った超スピード血統の馬でした。

母もNasrullah系のスピード馬バーバーで申し分なく1年後二つ返事で購入しました。

御賢明なゆきさんはお気づきと思いますが、この配合は父ー父と母ー父のサイヤーラインがNasrullahで重複する同型配合で矢野先生がおっしゃるように王道に外れた配合でした。

その結果は「ドルフィンボーイの思い出」に記載しましたように、気性の激しい骨の弱い馬で中央競馬から締め出されるような馬でした、しかし一方では凄く速い馬でもありました。

2001年のセレクトセール見に行った時小さい馬でしたが均整の取れた良い馬がいました。

早速血統を調べるとクリスタルグリッターズの仔でした。クリスタルグリッターズはNasrullahの3X4の奇跡の血量を持ったスピード馬です。

一瞬ドルフィンボーイ号のことを思いましたが母親を観ますと5代血統表の中ではNasrullahを持たない健康的なアウトクロスの馬で父クリスタルグリッターズとの間にもクロスの発生は無く、ドルフィンボーイ号の時の苦労の無いスピード馬で、将来もう一度東京大賞典を勝てる馬に成長するよう願って購入しました。それがハードクリスタル号です。

ハードクリスタル号はドルフィンボーイ号とうって変わって丈夫な気性の良い子で昨年も一年を通してガンバテ呉れました。

一つ残念だった事は、東京大賞典に登録しましたら補欠の2番でしたので出走できない事を怖れて名古屋グランプリにしたことでした。実は補欠3位まで出走が出来たのです。

写真は三歳で東京大賞典を勝った時のドルフィンボーイ号(446Kg)です。

 

2036. Re^2: ハードクリスタル 矢野敏  2006/01/24 (火) 11:12

そういえばドルフィンボーイも同系配合でしたね。懐かしいですね。Sire LineのNasrullahがBold Rulerを通じてのNasrullahの分、悪影響が少ないとは思いますが・・・。ハードクリスタルにドルフィンボーイの分も頑張って貰いたいですね。こちらは長く健康だと思いますので・・・

Re: ハードクリスタルおめでとう 矢野  2006/05/23 (火) 11:14

本当におめでとう御座います。プリークネスがBarbaroの骨折で暗い気持ちになりましたが、それを吹き飛ばすハードクリスタルの快勝でした。ハードクリスタルは晩生のBlushing Broomの系統のアウトクロスですからまだまだ活躍できると思います。アブクマポーロを超えるところまで頑張って欲しいものです。

 

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〇2006/02/14 Tue 12.50 血統事始V
 

育成だけで馬というのはそんなに変わるのでしょうか?
個人的には、社台のような早い時期からじっくり
育てていく方が良いのではないかと思うのですが

 

ゆきさんご返事遅くなりました。血統に凝る前の話しですが参考になるかもと思い書きました。

 

血統事始V  *青色の馬名はクリックすると血統表を観る事が出来ます

 

競馬の好きになる過程は人それぞれですが、多くの人は心に留める馬を持っていると思います。私の心に留める馬はオンスロートです。

オンスロートに出会ったのは1959/7/27の現在の2歳戦でした。その日は月曜日でしたが、「速い馬を見に行こう」と会社の先輩に誘われて、会社を抜け出し大井競馬に行きました。

そこで観たのがオンスロートでした。すでに7/15日に1勝した後でしたがレコードタイムで勝ちました。その日からオンスロートの虜になりました。

オンスロートはその後7連勝を含む18勝を挙げて中央競馬に移って行きました。

中央競馬にうつてからは秋の天皇賞は、同じ年に大井から中央に移っていたタカマガハラの2着でしたが 、春の天皇賞を勝ち、1962/6/9のオープンから12/23の有馬記念まで6連勝して引退しました。

これは私にとってハイセイコーやオグリキャップ が競馬フアンに強烈な印象を与えたのと同じように私を更に激しく虜にするのに十分でした。

オンスロートは青森牧場で生まれた馬です。父はマイナーなカネリューでしたがその仔には桜花賞・オークスを勝ったカネケヤキがいます。地味な血統でしたが青森牧場が初めて送り出したオープン馬でした。この後青森牧場からはオークス馬カネヒムロ、有馬記念を勝ったカネミノブ等を筆頭に多くのオープン馬を出ています。

私が青森牧場に行ったのは1991年の春でした。多くの人から「馬を買うなら北海道だよ、青森はグリーングラス以降20年も重賞馬はいないよ」といわれても青森牧場に行ったのはそんな思い入れが有ったからでした。

私一番知りたかったのは、昔、川崎に来られた社台の吉田善哉さんから安い馬を1頭買ったとき に吉田さんが「青森牧場には参るなー、素人のくせに馬走らして」といっていたの覚えていたからです。以前走った秘密は何だ、また走らなくなった秘密は?勿論そんなことは分かるはずは有りませんでした。

翌年、再度青森牧場に行き牧場を案内して貰いました。門を入り左側に事務所右側に馬房があったように記憶しています。馬房を過ぎると1800mの起伏にとんだコースが見えてきます。大井競馬場より広く東京競馬場より起伏にとんだ天然の坂路を持った1800mでした。

ドルフィンボーイ号はそのコースの中に放牧されているというので、コースに足を踏み入れ放牧地点に向かおうとしました。その時コースの異常さに気が付きました。コースは高さ2m以上の塀で囲まれていました。案内してくださった甲田場長の話しに寄りますと 「先代の社長は若馬の時からコースに入れて、がんがん追い回すので、苦しくなった若馬が柵を跳び越して逃げて危ないので高い塀にして逃げるのを防止した名残です 」といっていました。現在は夜間放牧に切り替えたので無用の長物ですとおっしゃていました。

この話を聞き、走った時代と走らなくなった時代との秘密を見つけたような気がして少しガッカリしていましたら、甲田さんが「今日見に来られたカネアザミの仔(ドルフィンボーイ)は馬房から出すと他の馬は馬場の中の放牧場に 真っ直ぐ入りますが、この馬は自分から先代が遣っていた時のように全力で1800mの馬場を2周してから放牧場に入るのですよ」と教えてくれました。

勿論、昔走っていたときの馬と同じトレーニングする馬、すぐ購入しようと決心しました。

帰りに甲田さんになぜ若馬トレーニングを止めたか聞きましたら「以前はは自分で使う馬でしたから怪我をして廃馬になっても良かったのですが、現在は殆どが売り馬ですから怪我をしない夜間放牧にしました」とおしゃっていました。

帰りの飛行機の中で、念願のオンスロートを手に入れたような気分になり、自然と笑みがこぼれました。

後日ドルフィンボーイ号が羽田杯、東京ダービーと負け続けた時、この馬は距離が伸びれば絶対走るからと池田厩務員を励ましたのは、若いころ毎日3600m走っていたことを知っていたからです。

日高地方をを回りますとまだ昼夜放牧すらしていない牧場や、うちの牧場は昼夜放牧をしていますと胸を張る牧場がありますが、何か甘い気がします。

社台に吉田善哉のあの言葉を今一度言わせる為には、若馬の運動量を増やすしかないのでは無いでしょうか?

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2006/08/09 Tue 8.15 血統事始W
  暇に飽かしてせりごんさんや矢野先生の血統論を読み返し参考になりましたが、何かせりごんさんはまだ本当の所までお話に成ってないような気がします。配合は人それぞれ研究され秘密の分野があると思いますが、後一歩踏み込んで「血統事始」書いてくださるとうれしいです。

浦川静雄さん、大変遅くなりましたが失敗談書きましたので御笑読下さい。

血統事始W  *青色の馬名はクリックすると血統表を観る事が出来ます

血統事始Tに書きましたように配合に興味を持ったのはトウショウボーイの奇跡の血量3X4を知ってからでした。

1980年後半になって15年間封印していた競馬を始めるに当たって最初に考えた事は当時一世を風靡していたNorthern Dancer の血量を18.75% 持った馬を購入することでした。

知り合いの馬喰と青森を歩き3頭のNorthern Dancer 3X4の馬を購入しました。

その結果は散々たるものでした。2頭は競走馬にも成らず1頭は他の馬に付いて行けず大差の最後方を走る馬でした。

あまりのことに競馬関係の文献をあさっていた所、その中に「ノーザンダンサーのクロスを持った馬で特別競走を勝った馬はいない」と書いてありました。

その後1991年に競馬通信社からケン・マクリーンの「クラシック馬の追求」をよみ愕然としました。その中には海外の生産者は「誰もが皆、Northern Dancer のクロスを強く持つことはあまり賢いことではないと考えている」と記載されていました。

その後矢野先生の「熱血解析」が発表されて格クロスの成績が検索できるようになり、NDクロスの競走馬の散々な成績が統計的に示されて競走馬にに成らなかった馬も含めると目を覆いたくなる成績でした。

その後も日本の生産者は多くのNDクロスの馬を生み出しましたがあまり良成績無かったと思います。

それ以来購入に当たっては極力NDクロスの馬は避けてきました。

1990年もなかばになると日本ではフサイチコンコルド海外からはラムタラのの活躍が伝わりました。両馬ともNDクロスが3X3、2X3 と超インクロスの馬で戦績は5戦3勝、4戦4勝と重賞勝ち馬にしては戦績が少なく健康な馬とは思えませんでした。当時矢野先生のソフトでNDのインクロス馬を調べましたが勝ち上がり率が低く、また全生産馬を分母にするとビックリするほど酷かった事を覚えいぇいます。

1990年後半になるとNDクロス3X4の馬も活躍しだし、2000年に入ってから再度NDクロスの研究を始めました。

その結果活躍馬の多くは母方が古いヨーロッパや日本の古来種みたいな血統である事やMr.

Prospector の血を持っていることなどを見つけました。

更に前出のケン・マクリーンの本にDNクロスの可能性について「2000年までにNIjinskyとStorm。Birdは遺伝的にリンクするだろうと予測している。これから10年の内に、この2頭の種牡馬が血統表の中で出会い、そこで驚くべき遺伝的インパクト生じる事が十分考えられる。この2頭は3X3のポジションがベストだと考えられる」と記載されています。

2004年社台白老ファームに赴いた折りこのケン・マクリーンの予言した馬に出逢い購入しました。ダンシングキャットと名付けられたこの馬は素晴らしい馬体の馬でしたが、多くのNDクロスの馬に見られるように骨が弱くて、強い調教に進むと骨が欠けて、すでに2回の摘出手術をして現在休養中です。

昨年ハードクリスタルが根岸SやフェブラリーSで完敗したメーイショウポーラもNijinskyとStorm Birdを持っていますがダンシングキャットの3X3のポジションでなく4X3とクロスが弱くなっています。

これに習って本年購入したFarm Cat-06はNijinnskyとStorm Caのポジションは4X3になっています。健康でメイショウポーラのような快速馬に成る事願っています。

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2005/06/01 Wed 00:02 ディープインパクトの体重


弟72回東京優駿はディープインパクトの圧勝で終わりました。
昨今は450Kg以下の馬はあまり喜ばれない傾向にありますが、ディープインパクトは+4Kgの448Kgで出走してきました。私は馬体重は440Kg前後あれば十分と思っていましたので、我が意を得たりと言う所です。
私が所有した馬で特に速かった馬はドルフィンボーイ号、ロードシップ号、メルクリオス号ですがこれらの馬は皆444Kgぐらいがベストでした。
これを機会に450KG以下の馬にも目を向けていただくと嬉しいです。
人間でも1000m以上では大きい人はいません。440Kgあれば十分と思いますが、いかがですか?
以前ドルフィンボー号が戸塚記念勝て装鞍所に帰ってきたとき八木先生が「みんな見てみろ馬なんて体重じゃないんだよ440で十分だ」と叫んでいたのを思い出します。

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2005/05/14 Sat 07:36 史上最高配当¥1300万円


本日5月13日、第3回大井競馬第6日目第2競走(サラ系3歳、1200m)において、14頭中10番人気のベルモントジャイブ(和田)が逃げ切り勝ちを収め、2着に11番人気のレールッコ(宗形)、3着に13番人気のチャームブリジ(達城)馬が入ったことから、中央・地方を合わせ配当額で日本競馬史上第1位となる三連単¥1300万390円の“超”万馬券が出た。(競輪、競艇、オートを含めた公営競技史上でも第1位。)
このレースには我が愛馬シャンハイマジック号も出ており3番人気になっていました。期待のスピーと馬で逃げれれば勝てると思っていましたが、勝った馬達が我武者羅に行くので共倒れを嫌って抑えてしまいました。もしシャンハイマジックが2枠をいかして行っていたらこの馬券は無かったかも。
以前ハートワンが負けて¥975万2820円の史上最高をつけたときといい、あまりいい気持ちでは有りません。


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2005/01/27 Thu 22:23 川崎記念メルクリオス号


川崎記念メルクリオス号

 


写真のような垂れ幕を出していただき有難う御座いました。
パドックでは大半のフアンの方々が、「このクラスに何で出てきたの?大差のドンベイではかわいそうだな」などと話しているのが聞こえてきました。
そんな雰囲気を突き破るように垂れ幕が張られ本当に嬉しかったです。
レース結果は今野騎手の騎乗した地方競馬の雄トウシンブリザードを6馬身離し2番人気のダイワエルシエーロに1馬身まで迫る7着でした。
騎乗した野崎騎手によりますと森下騎手に外にはじかれなければ5着はあったそうです。

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2004/12/08 Wed 13:17 Message Board から


Message Board から

 


写真は外の黄色の帽子がハード君その内の黄色の帽子がドン君さらに内の2列目の橙色がタイム君です。

Massage Board に青髭さんが書き込んで呉れましたご意見が、僕と同じなので、ご紹介いたします。
1466. 北海道馬奇譚 青髭  2004/12/04 (土) 09:18
おはよう御座います。
ジャパンカップダート、ドンとクリスタルを軸に3連複12点総流しして・・・・
でもそのショックはやっと癒えました。
北海道馬奇譚の写真見ますと、各騎手の考えが良く分かり面白いですね。
豊君はHPで「タイムパラドックスはもう一つ足らない馬ですができる限りのことはしてみましょう」と書いていましたが、その作戦はインを突き最短距離を走ることだったようです。
レース後のHPには「勝負どころで同じような位置にいたアドマイヤドンが外から追い上げていくのを見て、僕はインを狙ったのですが、これがうまく当たりました」と書いてあります。
せりごんさんの北海道馬奇譚の写真観ますと3コーナータイムパラドックスを交わしていくドンとクリスタルが写っています。でも4コーナーで大きく外に振られて、脚を使って抜け出そううとしたはずがインのタイムパラドックスに遅れています。せりごんさんがよく言う「2列縦隊で競馬しろ」を守った豊騎手の作戦勝ちでした。
安勝君は前が塞がってドンの能力を十分引き出せないのを嫌い外外に持ち出して競馬しています。
岡部さんは勝つ馬をドンと見極めその外にハードを付け勝負しているのが良く分かります。
是非せりごんさんの馬に騎乗される若い騎手の皆さん、北海道馬奇譚観て下さい。

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2004/11/04 Thu 18:01 ステークスウイナー


ステークスウイナー

 


私は競馬を始めてから、馬主になったら勝ちたいと思っていたレースがありました。それはステークスです。
レースに使う馬主が皆で掛け金(ステークス・マネー)を出して、勝った馬の馬主が取る、そのシステムが競馬本来の姿のような気がしていたからです。
自分の馬がこの中では一番強いという自負心を持った馬主同士で「自分の馬に賭ける」そして勝って掛け金を取る、何か賭け事の原点のようで賞金をとるレースとは一線を画しているような気がしています。
今までサウスポール号が2回挑戦して2着、4着と涙を呑んでいましたが、今回ハードクリスタル号が始めてステークスに勝ってくれました。
長年の念願が叶ってステークスウイナーとなり調教師、厩務員、調教助手、騎手・・この馬にかかわった多くの方々、応援してくださった方々に感謝いたします。
* 現在ではステークスは中央競馬だけで地方競馬にはありません。
ステークス・マネーに相当する付加賞は1着7:2着2:3着1の割合で配布されます。

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2004/08/06 Fri 16:55 Y&M Bar KISLING


Y&M Bar KISLING

 


昨日、競輪の山田裕仁選手が友人とY&M Bar KISLING に来店して下さいました。
写真はその時のもので、左から山田裕仁選手、彼の熱烈なフアンの方、タレント伊藤克信さんのフアンの方、伊藤克信さん。
右から細川洋選手、高木隆弘選手、彼のフアンの方です。
山田裕仁さんは今度中央競馬の馬主の資格を取られ、来年から中央競馬でも山田さんの馬が走ります。山田さんは既に地方競馬の馬主のとき、以前この欄で書きましたように、新潟で中央の重賞レースを制覇しています。此れから益々の活躍が期待されます。
細川洋さんは今回地方競馬の馬主の資格を取られ、現在は2歳馬を川崎の池田厩舎に入厩させており、今度の川崎競馬で初勝利を挙げそうです。
高木隆弘さんは競輪選手として活躍する傍ら、現在不動産会社の社長として会社も経営しています。
皆さん良くご存知のタレント伊藤克信さんは、競輪が大好き人間で自称山田選手のマネージャーと仰っていましたが、此れからは馬もやるそうです。
昨日は大井競馬に山田さんの愛馬が出ていましたので、応援方々最終レースの我が愛馬グッドまで応援してこられたそうです。
皆さんは仕事も一流ですが、遊びも一流で、とても楽しい人達でした。

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