我が人生は競馬のために
1944年戦争も激しくなり大森区立大森第四小学校通っていた私は祖父を頼って三島に疎開しました。
場所は三島市と清水村との境の東海道に面した家でした。翌年戦争も終わり次の年から三島の競馬も盛んになり、早朝東海道で調教する馬の蹄の音で目が覚める毎日でした。
近所の農家には海老に成った馬や、他の競馬場から来て連れて帰らない馬が預けられて農耕馬として飼われていました。
秋の刈り取りの終った田んぼで、そんな馬に無口の手綱を付けて裸馬に乗り子供同士で競馬ごっこを遣りました。
戦後5年も立ちますと川崎から亡くなられた稲垣先生や山崎先生が馬を引いて競馬に来て、祖父の家の前の床屋さんや中華屋さんに下宿していました。
そんな環境ですから小学校も6年になると復員してきた叔父や近所の若者に連れられて競馬場に行き少ない小遣いを増やすべく馬券に励んでいました。
三島競馬場は一周1200m幅25mのコースで府中競馬場のように3コナー付近に大きな欅の木があり「勝った馬はあすこに隠してあったんだよ」と教わったものでした。
そんな生活は1955年の三島競馬廃止まで続きました。
大学に入り東京に出てきた私がまず行ったのは東京競馬場でした。その頃はもう一端の馬券師気取りで学費や生活費を持って出かけました。
東京競馬場では三島の競馬場のような情報が無く、当時はまだ馬体重の発表すら無くて、パドックで見極めるしか有りませんでした。これが非常に難しく、しばしば苦戦を強いられ、また騎手の腕も一部の騎手を除いてはレベルが低く、とんでもない乗り方をされ大敗を喫して虎の子を取られていました。全く馬券師もいい面の皮でした。
そんな状態ですから、いくらアルバイトやっても追いつきません。血尿が出るほどの苦しさでした。
やがて大学2年になり統計学と出会い目から鱗というか、これだと思い競馬のデーター処理に夢中になりました。やがてデーター処理にはクラスが細分化されて同じコース、同じ仲間で走る南関東競馬が最適であると気が付きました。
主戦場は川崎競馬でした。そこには昔かし三島の競馬場に来ていた先生方が居り皆大歓迎してくれました。
当時の川崎競馬場は山崎先生や中島先生が騎手として活躍しており、浦和競馬の帰りに競馬場の近くの焼き鳥屋で一杯飲みながら両騎手と反省会をやって一緒に帰ったものです。
公営競馬は365日開催している競馬で勉強はおろそかになりましたが、厩舎に寝泊りしての競馬は益々磨きをかけました。
その頃の地方競馬には公認の予想屋以外に非公認のコーチ屋と呼ばれる予想屋が居ました。その一人が今は入院中のためメッセージボード書き込んでくれていませんが「バケンオー」のハンドルネームを持つ山本俊二さんです。
彼は大手弱電メーカーの技術屋さんでしたが競馬が好きで会社を辞めて独自のデーター処理で優劣を付けてコーチをしていました。彼のデーター処理は馬場の状態を考慮して補正してから処理するもので可也優れたものでした。
山本(バケンオー)さんの周りには私やキンコーの冠で馬を走らせた仲原恭一さんや宮大工の加藤さん、今も健在なNAKANOさん、家電販売の小野さん、区会議員のかばん屋さん
、酒屋さんなど13人がグループを作っていつも一緒に競馬を遣っていましたた。
競馬が終ると勝った人が浅草の「みどり鮨」と「キャバレー花電車」を支払うルールでよく飲みに行きました。大金を取った人が居ますと浅草のふぐ屋に行く事も有りました。だいたい儲ける人は決まっていて私と仲原さん、NAKANOさんの3人が主でそれに小野さん加藤さんが続いていました。一番豪華だったのは山ちゃん(バケンオー)情報で材木屋の親爺さんが大儲けした時でした。親爺さんはなんと神楽坂の料亭で芸者を上げて騒ぎました。帰りにNAKANOさんが人力車で帰ったことを鮮烈に覚えています。
山本さんの後に似た方法で予想を立てる同じ愛称の「山ちゃん」が出て来ました。山ちゃんは山崎といい大手製薬会社の技術屋さんでしたが馬券に魅せられてコーチ屋になりました。しかし後年予想にいきずまり我々のあたり馬券を持ってドロンしてしまいました。それを見るに付けPCの無いころ計算尺を片手に予想する山本さんは見事なものでした。
やがて大学も卒業し会社に就職しました。所属は技術部でしたが競馬好きな営業課長と組み暇に飽かせて大井や川崎に車を飛ばして馬券を張っていました。
「血統事始V」にも書きましたが、1959年の夏その課長に誘われて大井競馬に行き初めてオンスロートに出会いました。レコードで突っ走った雄姿を見てすっかりその虜になり馬券は二の
次で馬自身に興味を持つようになりました。
オンスロートが中央に殴り込みに行きそれなりの成果を挙げるにしたがって、その意は益々強くなり如何したらこんな馬を持つように成れるかばかり考えておりました。
その頃になりますと13人居た仲間も半分ぐらいに減っていましたが、思いは同じで「いつの日か馬を持ちたい」とよく話し合っていたものです。
私の遣った事は、当たり馬券の1割を損得に関係なく積み立てる方法でした。競馬ですから金に困る事も再三ありましたが、この金だけは手を付けませんでした。
サラリーマンも10年目を迎えてこのまま馬券師サラリーマンを続けるのは無理だと悟り、多くの競馬好きサラリーマンと同じように会社を辞めて独立しました。
自由時間を手に入れた私はもちろん競馬主、会社従の生活で支払を取った馬券の儲けで払うなど滅茶苦茶で一緒に始めた同僚も辞めて行き、ついには馬を買うための積立金まで手を付け出しました。
このままでは「馬主に成るのは遠いい夢」と遅れ馳せながら気づき、競馬友達にも「今度会うときは馬主として会おうぜ」と啖呵を切って競馬場を後にしました。
その頃はテンポイント、トウショウボーイが活躍していましたが馬券とは縁を切り、将来馬を買う時の為と血統の研究にその矛先を変えました。
しかし競馬復帰は難しく、復帰までには15年を要しました。15年後中央、地方の馬主資格を取って競馬j場に戻った時は、山本(バケンオー)さんも元気に遣っており車を買って上客の送り迎までしていました。
むかしの仲間は4人に減っていましたが、仲原さん、NAKANOさん、加藤さん、酒屋の旦那の4人はすでに馬主になって居り、酒屋の旦那とNAKANOさんは重賞勝ち馬を持っていました。仲原さんと加藤さんはB1の常連馬で活躍していました。
その後、残念ながら4人共にバブル崩壊のあおりを食らって馬主から足を洗いました。そしてNAKANOさんを除いた3人は失意の内に亡くなられ、また三島時代からの山崎先生、稲垣先生、中島先生も亡くなられて、仲原さんやNAKANOさんとよく温泉やゴルフに行き私の中山馬主会の保障人に成ってくれたドウカンヤシマの新井さんも亡くなりました。昔の仲間はいまや入院中のバケンオーさんと引退したNAKANOさんだけになりました。
また血統研究の友人も青木さんは競馬通信社を閉め引退し、矢野先生はアメリカに行ってしまいました。馬主に成ってから知り合って昵懇に付き合ってきた佐々木先生、河津先生も亡くなり、いまや現役競馬人では肝胆相照らす仲間は居なくなりました。
しかし「我が人生は競馬にあります」私もずいぶ年を取りましたが健康な間は頑張って行きたいと思います。
*エピソード
競馬を始めてから.+.常に考えていた事は{そのレースの競馬場のお金を全部取る}ことでした。馬主になって初めての勝負はそんな目的で馬を走らせることでした。自分の馬を信じて目一杯の馬券を買う、そして競馬場のお金を全部取る。
私はそんな目的を持ってアラブのオープン馬1頭を新潟(地方)から買いました、ハツノファーストです。新潟は賞金が安く重賞勝ち馬以外はオープン馬でも持ち賞金は少なく金額も安く買えました。金額は150万円だったと思います。
早速川崎の杉村厩舎に所属しました。レースは売上の多い大井競馬場に決めジョッキーは今調教師の山崎騎手に頼みました。
格付けは確かC2だったと思います。当日は騎乗停止のために山崎騎手が乗れず佐々木竹見騎手に頼みました。
初めてデビューするハツノファーストは砂の深い新潟、三条競馬のため持ちタイムが悪く全然馬券が売れませんでした。主力に買おうとしていた3−7(当時は枠複のみ)でも¥5000円ほどの配当でした。ついにその時は来たりと思い配当が¥800円に下がるまで馬券を買いました。勿論押さえに2−3,3−5、3−8も買い総額で400万円ほど投資しました。
スタートは2コーナー隅の1400mでした。スタート後双眼鏡で先頭の馬から順に見て行きましたが何処にもハツノファーストの影も形もありません。ハツノファーストは初めての競馬場でビックリしてまだゲートに居たのです。やっとゲート出た時は先頭の馬は向こう正面差し掛かり後方の馬からも100mぐらい離されていました。
目の前は真っ暗になり頭をガツンと殴られた気がしました。
佐々木騎手は焦らず悠々と最後方を走っています。やがて4コーナーで後方の馬に取り付き一気に追い出して辛うじて2着にきました。それが長年の夢が叶った瞬間でした。
後で聞く所によりますと、ハツノファーストを大井の馬場見せに行った所、大井の赤間調教師が〔いいアラブだね、どの重賞狙ってきたんだい」と聞いてきたそうです。
2戦目は川崎で1番人気になり、2着の馬を100m以上離して勝ちましたが低配当で馬券の対象にはなりませんでした。
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