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Dolphin Boy

 

Dolphin Boy

ルフィンボーイの思い出 (目次をクリックしてください)

●出会い

●一目惚れ

●乗馬倶楽部へ

●小向厩舎へ

●更に苦難は続く

●最も危険なこと

●新馬戦へ

●クラシックへの出走

●戸塚記念を目指し

●東京王冠賞へ

●東京大賞典

●その後のドルフィンボーイ

Ba-ntt01.gifその後の関係者

●出会い●

1993年4月30日 私は、池田(現調教師)・鶴 両厩務員と連れ立って、、三沢空港から青森牧場に向かいました。 青森牧場の門を過ぎて林道を車で走っていくと、道路沿いの狭い囲いの中から一頭で、じっと車の方を見ている競走馬が目に付きました。

青森牧場にきた目的は、当歳時ドルフィンボーイ号と一緒に購入した、スピードドルフィン号(競走名)を観てもらうためでした。

スピードドルフィン号は、牧場を訪れる多くの調教師よりお褒めの言葉を頂き、中でも赤間 調教師・鈴木調教師、両先生が「青森牧場の名馬」と仰っていたと、他の牧場主より聞くに至って、私の自慢の一頭になっていました。

それにひきかえ、ドルフィンボーイ号は、自分好みの血統配合に、ニックス、そして父:ルイビルサミット、母の父:バーバーと言うだけで、加藤顧問の賛成を得られぬまま、脚の問題のある馬を購入したもので、誰一人誉めてくれる人のいない馬でした。

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●一目惚れ●

私達は、青森牧場の甲田さんの案内で、スピードドルフィン号の囲われている放牧場に行き、黒光りする堂々とした名馬を観ましたが、両厩務員が共に乗ってこず、先ほど、車より見えた馬に気がいってしまって、甲田さんの説明も上の空、といった様子でした。

甲田さんもほとほと困った様子でしたが、私たちをその馬の囲いに案内しました。

その馬は、頭の先から尻の先までが輸送の時に出来たと思われる傷が全身を覆い、さしずめ“切られの与三郎”でした。

甲田さんからは、「この馬はドルフィンボーイ号と言って、美浦の阿部厩舎に4月14日に入厩しましたが、厩務員を2人怪我させたため登録抹消されて、昨日29日に牧場に帰ってきた馬で す、青森牧場でも誰も乗れる調馬師が居ないほど危険な馬ですから、この馬だけは辞めたほうがいいですよ。」と忠告されました。

更に、「この馬は、初めから人を乗せず、ひとたび人が乗ると、塀とか牧柵に向かって全力で疾走して自分だけは急回転するため、青森牧場でも調馬師が5度も落馬して、そのうち3度はヘルメットが破損してしまったほどで、とても競馬場では乗れない為に、芹澤さんより引き取り、当社で去勢手術を試み、様子を見ようと思っているところです。」と付け加えました。(注:こんなブレーキングも充分に出来ない状況で厄介払いに入厩させられてしまった阿部厩舎では、さぞパニックに陥った事と、知らなかったとはいえ申し訳ない気持ちでいっぱいです。)

しかし、甲田さんのこんな話を、両厩務員は馬耳東風と聞き流し、目は益々輝き、遂には二人共に柵内に入り、馬の口に手を入れたり、脚に触ったり、体全体を舐め回すように観察し始めました。

やがて二人の厩務員は、去勢手術など可哀想な事はせず、自分に扱わせて欲しいと言い出しました。

更に池田厩務員(現調教師)に至っては、この場で乗馬してみたいと言い出し甲田さんを困らせ、遂には青森牧場の調馬師を連れて来て、再度この馬がいかに危険かを説明して頂かなくてはなりませんでした。

結局、私たち三人で相談し、再度青森牧場に佐々木調教師を同道し、佐々木調教師の了解が得られたなら、去勢せず、佐々木先生にお願いする事とし、青森牧場には、それまで手術を待ってもらうことにしました。

帰りの飛行機の中でも二人の厩務員の興奮は覚めやらず、このような馬でなければ重賞レースは取れないと話し合い、池田厩務員(現調教師)に至っては、

「何とか一からやり直して、12月の“全日本三歳優駿”に出走させたい。」と言い出すほどでした。

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●乗馬クラブへ●

それから二週間ほどして、待ちに待った佐々木先生からの電話があました。

「青森牧場に見に行ってきました。どうにかなると思うので、ドルフィンボーイ号、やってみましょう!」との、嬉しいお返事でした。先生は更に今後の計画として、

「川崎の厩舎に入厩させるにはかなり危険なので、まずは加納騎手が関係している米軍キャンプ内にある乗馬クラブに入厩させ、そこへ池田厩務員(現調教師 )が毎日通い、近くの林道を利用してブレーキングから徹底してやり、ある程度乗れるようにあったら川崎小向厩舎に入厩させます」とのことでした。

6月3日、ドルフィンボーイ号が川崎小向厩舎に到着し、直ぐ、多摩米軍キャンプ内の乗馬クラブへ移送されました。今回は、ドルフィンボーイ号も三回目の輸送の為か非常におとなしく、傷一つ無い状態でした。

この日から、池田厩務員(現調教師)とドルフィンボーイ号との人智(馬智)を尽くした壮絶な死闘(オーバーな表現ではなく、本当に命がけの戦いでした)が、始まりました。

池田厩務員は、毎日厩舎の仕事が終わり次第、車で片道一時間半をかけて乗馬クラブへ通い、まずはブレーキングから徹底 的に始めました。

一方、ドルフィンボーイ号のほうは、クラブ員の綺麗なおねえさん達にチヤホヤされて、すっかりイイ子ぶってみんなの人気者になり、人懐っこさを発揮し始めるほどの上機嫌でした。

しかし、彼ドルフィンボーイ号の凄さ・凄まじいほどの恐ろしさは、池田厩務員が小さな角馬場で乗り出してから初めてクラブ員の前で披露されることとなりました。

池田厩務員を乗せた彼は、ロディオよりも更に凄まじい勢いで牧柵に向かって全力疾走し人馬共に柵へ激突するか、急激に旋回をして人馬共に横倒しになるかと思われるほどで、池田厩務員もここで落馬したらこの馬も終わりだとわかっているので、必至で制御し彼を立て直す、という、恐怖の連続の毎日でした。

また、この方法では、池田厩務員を落とす事が出来ないと悟ったドルフィンボーイ号が、池田厩務員の意表を突き、少し油断して乗馬しようとした瞬間に急に立ち上がり落馬させようとしたり、急に走り出したり、急停止したり・・・と、あらゆる手を使って挑戦してくるのを、池田厩務員の技と努力で悉くかわし、七月五日に 、めでたく川崎小向厩舎に入厩しました。

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●小向厩舎へ●

川崎小向厩舎に入厩した彼は、すぐに川崎小向厩舎でいちばん有名(悪いので有名)になりました。彼が池田厩務員(現在:川崎・池田厩舎調教師)と八木厩務員(現在:川崎・八木厩舎調教師)に連れられて角馬場の現れただけで、他の馬達は危険を察知して角馬場から出てゆくほどでした。

やがて私の耳にも彼に付いての色々な噂が入ってきました。例えば、乗っている池田厩務員(現調教師)と手綱を持っている八木厩務員(現調教師)の制止も聞かず、八木厩務員を50mも引きずって走ったとか、あの馬をこのまま入厩させていたら必ず死人が出るとか、もし馬が仕上がっても誰も乗る騎手が居ないから無駄だ、など、殆どが彼に対する中傷でした。

確かに、騎手の事は大きな問題でしたが、レースを使う時は命に換えても乗ってくれると野崎騎手が嬉しい約束してくれたので、心配はありませんでした。

野崎騎手も雨の中を本馬場まで池田厩務員に付き合ったり、色々とドルフィンボーイ号のことを気遣ってくれていました。

また、佐々木調教師のところにも種種の苦情があったと思いますが、かなり太っ腹な先生は、弟子の池田厩務員を信頼し、ドルフィンボーイ号についての先生からの苦情は一切ありませんでした。

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●更に苦難は続く●

しばらくすると、ドルフィンボーイ号に対する非難が、死に物狂いの努力を続けてくれている池田厩務員に対する賞賛に変わり行きました。私も一安心して、ある日、 ビッグレッドの岡田さんと河津調教師宅でご馳走になっている時に、河津調教師に意見を求めたところ、

「まだまだ安心は早過ぎますよ。今朝も、私が角馬場に馬を入れている処に、池田・八木両厩務員がドルフィンボーイ号を連れてきて、池田君が乗ったところ、急に全速力で柵に向かって走り出し、乗っている池田君はさすがに真っ青になっていたので、私も直ぐに馬を外に退避させるほどでした。」と仰いました・・

さらに先生は、「このような馬は、一般の騎手では直ぐに止めようとして両手で手綱を引くから、余計真っ直ぐ走ってしまって危ないから、乗馬を経験している加納騎手のように、とっさに片方の手綱だけを引ける騎手でないと、騎乗はまず無理だと思います。」とアドバイスを下さいました。

そうこうするうちに、会社に他の馬主から電話がありました。 

「今朝起こった事、知ってる?!」と言われ、悪い予感を懐きながら詳しいお話を聞くと、

「今朝、馬場から上がってきたドルフィンボーイ号が、池田君を乗せたまま佐々木調教師を振りきり、土手の上の車道に飛出し、そこ に通りがかった大型トラックの前で馬が横転し、池田君は道路に叩きつけられて、馬は反対側のコンクリート塀にぶちあたったらしいよ!」とのことでした。

さっそく佐々木先生に電話をかけたところ、「ちょうど信号機が赤に変わりトラックが停まってくれたので、人馬共に無事でした。心配ありません。」と笑って仰いました。

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●最も危険なこと●

やがて九月に入り、彼も十月デビューを目指して調教が進められ、傍目には順調に見えたので、安心して加藤顧問と共に北海道の愛馬に会いに行きました。夜に入り、寿司屋の座敷でお世話になっている農協の職員や牧場主と歓談していると、突然、川崎の鈴木敏一調教師(ドルフィンボーイ号の弟を購入された先生)が座敷に入っていらっしゃり、

「芹澤さん、ドルフィンボーイ号を早く廃馬にしないと、死人が出るよ。」と仰り、何のことか判らず唖然としていると、

「この間、ゲート練習を見ていたら、仕事を終えた若い厩務員達が、十数人でドルフィンボーイ号をゲートに連れて行ったが 、なかなか中に入らず、十人がかりでやっと入れたと思ったら、いきなり飛び出して、傍のブッシュに突っ込んだりするので、今度は飛び出さないようにゲートの扉にロープでぐるぐる巻きにしてから、また十人がかりで入れたところ、池田君を乗せたままゲートの扉の下からゲートをぶち壊して飛び出して、ブッシュに突進して しまいました。私も長く調教師をしていますが、ゲートをひん曲げて壊した馬は初めてです。競走馬には無理じゃないですか?」と進言していただきました。

東京の戻った後、佐々木先生にそのことについてお聞きしたところ、

「仕事休みに、他の厩舎の若い厩務員達が一生懸命手助けしてくれています。皆もドルフィンボーイ号が好きだから大丈夫でしょう。社長 はそんな事心配しなくてもいいですよ。」と、自信満々に答えてくださいました。

やがて、佐々木先生の仰るとおり、皆様の努力のおかげでドルフィンボーイ号もゲートの事が分かり、ゲートでは大人しくなりましたが、ゲート練習で予想以上に時間をとられたために調教が遅れ てしまいました。

やっと調教ももでき、11月レースに出るため の能力試験レースに出場しました。レース結果は、馬なりで一番時計を出して合格しました。

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●新馬戦へ●

新馬戦は、十一月十八日、川崎競馬場で行われ、彼は一番人気で出場しましたが惜しくも五着に破れ、全日本三歳優駿への出場は、断念せざるを得ませんでした。敗因は、スタート時にゲート内で躓いたことと、能力試験の結果を過信し、調教が軽すぎたためと思われます。

 

 

次のレースの十二月三日のレースは、充分に調教し、体重も約二十キロ程絞り出走したところ、二着の馬を 二十馬身引き離し、初勝利を揚げました。次の十二月二十九日のレースも楽勝で2連勝し、2歳戦を終え、すぐ針をして3歳戦に備えました。

3歳になり、川崎の三月十八日最初のレースを加納騎手で勝ち、次の四月八日の羽田杯トライアルレース・クラウンカップは、初めからの約束どおり野崎騎手で挑むことにしました。トライアルレース・クラウンカップを目指して調教していた彼:ドルフィンボーイ号の左前脚は 、加藤顧問が指摘していたことが当たり、前レース後思わしくなく、更に削蹄後も右前脚まで晴れ上がったために、すぐに蹄鉄を外し、馴致だけの二時間程度の調教に変えました 。しかし脚は以依然思わしく ありませんでした。

池田厩務員の発案で、広島の福永装蹄師の弟子で、北海道に居る米田装蹄師にきていただくことにしました。師がお越しになったのは追い切り三日前でしたが、奇跡的に腫れが治まり、初めて準重賞に優勝しました。

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●クラシックへ出走●

五月十七日、公営競馬最大の3歳三冠レースの最初のレース、羽田杯を目指して調教していた左前脚は、クラウンカップ後もまたも腫れ、更に、削蹄後に右前脚まで腫れ上がってしまったため に、前と同じように蹄鉄を外し、馴致のみ二時間程度の調教に変えました。しかし依然腫れは引ませんでした。

そのため、再び米田装蹄師に来て頂き、師に削蹄していただいたのは追い切り前日でしたが、腫れも治まり、追い切り調教をする事が出来ました。その間獣医さんも体調維持と脚の回復に全力を注いでいただきました。

然しい、いかんせん大レースを使うには調教不足は否めず、ゴール四百メートル手前 で力尽き、十四着と敗れました。

 ドルフィンボーイ号は初戦のレースを見ても判るとおり図抜けたスピードがあるために一見調教充分なように見えるが、調教不足が極端にスタミナに現れるタイプのようです。

翌月 六月十日、3歳二冠目の東京ダービーに駒を進めることとなり、調教を始めましたが、またもや削蹄後、両前脚が腫れ上がった為に、再びすぐ蹄鉄を外し、馴致のみ二時間程度の調教にし、米田装蹄師に連絡をとり、その指示通りの装蹄をしてもらい、追い切り調教に挑みました。

しかし、この様に順調さを欠いた調教では、オープン馬相手には無理で、直線残り二百メートルを残し馬群に沈み十着に敗れました。

しかし、このレースの見所はスタートにあり、スタート後二百メートルではじめのコーナーに入る 大井の二千四百メートルで、大外の十六番枠からスタートさせらたドルフィンボーイ号が、有利な内枠を引き当てた逃げ馬を圧倒的なスピードで蹴散らし、最初のコーナーで先頭に立った事でした。このスピードには逃げるのをあきらめていた野崎騎手もビックリしていたようです。

彼はレースも終わり、針をされ、厩舎内で夏の休養に入りました。

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●戸塚記念を目指し●

 

 

 

 

九月に入り彼は、十月十九日の重賞レース戸塚記念に出走すべく調教に入りましたが、すぐ肩のコズミが酷 くなったので、再度針をし、九月二十一日の平場の下級戦(B2)に挑む事にしました。

騎手は、野崎騎手が私の親友(悪友とも言う)で丸中工業の社長、中原氏の馬に乗るため、叉更に今後も中原社長の快速オープン馬キンコ‐バトラー号に騎乗するため、私の初めからの主戦ジョッキーで、天才肌の名騎手である山崎騎手(現調教師)に騎乗していただくことにしました。

山崎騎手については、以前 、癖馬に乗せては川崎で三本の指に入ると言われている、豪腕騎手:高松さんが持て余し調教できなかった、我が愛馬プリティーダーリア号 を軽々と乗りこなし、鶴厩務員が、「当たりの柔らかい天才ジョッキーは違うなぁ。これが柔よく剛を制すということか。」と言っていたのが頭にこびりついていたので、安心してドルフィンボーイ号も任せる事が出来ました。

平場の下級戦(B2)の結果は、三着でなんとか戸塚記念への目処が立ちました。

戸塚記念の追い切り調教後の山崎騎手の話によると、まだだいぶ重い、とのことでしたが、友人達には、東京王冠賞狙いだから重くてもいいんだと、強がりを言っておきました。

戸塚記念は、ダービー馬も出場しましたが、野崎騎手の乗ったクラウンカップの時のラップタイムと最後の三コーナー(今回は、一秒早い)を除き全く同じで、楽勝でした。

その後の馬の状態は、太目の戸塚記念を叩かれてがらりと変わり、益々元気になり、早めに絶好調になってしまったと池田厩務員を慌てさせていました。

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●東京王冠賞へ●

いよいよ 3歳最後のクラシックレース:東京王冠賞に臨むになりました。ドルフィンボーイ号は、脚も痛くなく初めて完調で出走でき、彼ドルフィンボーイ号の本当の真価を問う事になりました。

もはや私には、神仏に祈る事くらいしか手伝うことが出来ないので、日夜、神仏(霊験あらたかで御利益があるので、特に秘す)に、スペクタクル(前二回ドルフィンボーイ号を馬なりでかわす羽田杯優勝馬)に捕まらないように!と、祈っておりました。

十一月十日、東京王冠賞の日、彼ドルフィンボーイ号は体が出来たせいかパドックても入れ込むことなく 、悠然と廻っていました。レースは山崎騎手の絶妙なペース配分で、宿敵スペクタクル号を寄せ付けず、スペクタクルを六馬身離し、優勝しました。

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●東京大賞典●

1994年12月23日、大井競馬場で行なわれる東京大賞典は、古馬の混じった中央競馬の有馬記念の様なレースで毎年最後の大井開催日におこなわれます。

ドルフィンボーイは、戸塚記念の2000mと東京王冠賞2600mを全力疾走した後で、足の悪い馬にしては東京大賞典の2800mを百戦錬磨の古馬と一緒に走るのは過酷に思われました 。しかし、いつなんどき再発してもおかしくない爆弾を抱えたドルフィンボーイ号にとっては、安定している今しかチャンスは無いと判断して、関係者の同意を得て出走させることにしました。

レースは4コーナーで古馬に追いつかれ山崎騎手も、ここまでかと思ったときに、奇跡的な二の足を使い大井の長い400mの直線を良く伸びて優勝しました。

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●その後のドルフィンボーイ●

大賞典のレースが終わり、ウィナーズサークルにドルフィンボーイを迎えに行くと、彼は夕闇迫る4コーナーの彼方から夕日を背に浴び、池田厩務員に引かれながら歩いて来ました、それはまるで「全ての事を成し遂げた老人」のようであり、晴れ晴れとした優勝者とはかけ離れたものでした。

その後中央競馬から2月のフェブラリーSに招待されましたが、大事を取って見送り春の天皇賞を目指すことにしました。しかし、中山競馬場のゲート試験後足が思わしくなく、長い休養に入りました。2年後浦和記念に出走した彼は何時ものレースの様に馬場入りの時、手綱をとる池田厩務員を1コーナーまで引きずって行きました。

レースは、デビュー戦と同じくスタートで躓きましたが、デビュー戦と違い弱った足には負担が大きく残念ながら骨折してしまいました。華々しく競馬場で散った彼は、余りに彼らしい終わり方でした。

今では夢を与えてくれた彼に感謝の気持で一杯です。もう二度と、あの華麗な大逃げが見られないかと思うと残念です。

最後に、佐々木先生、山崎騎手(現調教師)、池田厩務員(現調教師)は勿論の事、ドルフィンボーイ号が難しい時期に進んで騎乗してくれた加納騎手、野崎騎手、さらに八木厩務員(現調教師)はじめ多くの若手厩務員の皆さん、脚の悪い時に全力を挙げてクラシックレースに出場させてくれた装蹄師、獣医先生、皆様方に感謝すると共に、ここまでご指導ご鞭撻くださいました諸先生方 、特に多くのファンの方々に深くお礼を申し上げます。

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●その後の関係者●

 2002年8月現在 最初にドルフィンボーイ号に乗った加納騎手は、現在乗馬倶楽部のオーナーとして活躍しています。野崎騎手は、現在も騎手として頑張って居り、トゥインクルジョイ号で準重賞を勝って貰いました。山崎騎手は、調教師に転進し昨年リーディングトレーナーを取り、今年も33勝鞍を上げています。八木厩務員は、調教師になり今年鎌倉記念を勝ち、全日本優駿、東京ダービー2着のジェネスアリダーを育てました。池田厩務員は昨年調教師に成り、少ない馬房ながら今年24勝鞍を上げています。佐々木国広調教師は、残念ながら 昨年他界しました。先生は意識の薄れる中 

「3番 3番 3番頑張れ」 

と仰っていました。勿論ドルフィンボーイ号の大賞典の背番号です。ご冥福をお祈りいたします。

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